「天下第三行書」黄州寒食詩巻に見る蘇軾の行書
黄州寒食詩巻、業火に守られた書
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が東京を襲いました。街の多くが炎に包まれるなか、ある収蔵家が、家財の多くを失いながらも一巻の書を自ら運び出して守ったと伝えられています。
その書こそ、北宋の文人・蘇軾(そしょく)が書いた「黄州寒食詩巻(こうしゅうかんしょくしかん)」、通称「寒食帖(かんしょくじょう)」です。政治的な迫害によって左遷された地で綴られたこの一巻は、「天下第三行書」と称される書道史上屈指の名品でありながら、約百年前には一時期日本に渡り、やがて台湾へと渡っていきました。
この記事では、蘇軾という人物、黄州寒食詩巻が生まれた背景、書の特徴、そして日本を経由してたどった道のりを解説します。蘭亭序が「天下第一行書」、祭姪文稿が「天下第二行書」と称されるのに対し、黄州寒食詩巻は「天下第三行書」として、この2作とあわせて「天下三大行書」と呼ばれています。
黄州寒食詩巻とはどのような書なのか
黄州寒食詩巻は、北宋の元豊5年(1082年)、蘇軾が自作の詩2首を記した行書の巻物です。紙本・縦34.2センチ、横199.5センチの長巻に、「自我來黃州、已過三寒食」で始まる詩が綴られています。
蘇軾自身は、この書について「我書意造本無法、点画信手煩推求(私の書は心のおもむくままに作られたもので、もとより決まった法則などない。点画の一つひとつを、わざわざ理屈で詮索するまでもない)」という言葉を残したと伝えられています。技巧を誇るのではなく、内面の心情をそのまま筆に託すという、蘇軾の書に対する姿勢をよく表す一節です。
現在は台北の国立故宮博物院に所蔵されています。
政治的な迫害の果てに――黄州への左遷
黄州寒食詩巻が生まれた背景には、蘇軾の人生で最大の危機となった「烏台詩案(うだいしあん)」があります。
元豊2年(1079年)、湖州の知事であった蘇軾は、朝廷への謝辞の中に政治を皮肉る表現があるとして弾劾され、御史台(ぎょしだい、当時の監察機関。官舎にカラス〈烏〉が多く棲んでいたことから「烏台」と呼ばれました)の獄に130日にわたって投獄されました。最終的に死罪は免れたものの、黄州(現在の中国・湖北省黄岡市)へ左遷され、実権のない閑職に留め置かれることになります。
黄州寒食詩巻は、その左遷から3度目の寒食節(かんしょくせつ、冬至から105日目、火を使わず冷たい食事をとる中国の伝統行事)を迎えた際に書かれました。「死灰吹不起(燃え尽きた灰は、吹いても二度と燃え上がらない)」という詩句には、政治的な再起の見込めない境遇への諦念がにじんでいます。
文字が語る、蘇軾の心情の揺れ

黄州寒食詩巻の大きな特徴は、書き進むにつれて文字が太く、大きく変化していくことです。書き出しは比較的落ち着いた字形ですが、詩の内容が自身の不遇への嘆きに差しかかるあたりから、点画は肥えて重みを増し、字の大きさも不揃いになっていきます。この記事の画像に写る「哭塗窮(こくときゅう、行き詰まって泣く)」「死灰吹不起」のくだりは、まさにその感情の高まりが頂点に達した箇所です。
この書風について、蘇軾と親交のあった書家・黄庭堅(こうていけん)は、巻末に自ら跋文(ばつぶん)を寄せ、「東坡此詩似李太白、猶恐太白有未到處。此書兼顏魯公、楊少師、李西臺筆意(東坡〈蘇軾〉のこの詩は李白に似ているが、李白でも及ばないところがあるだろう。この書は顔真卿・楊凝式・李建中の筆意を兼ね備えている)」と、最大級の賛辞を残しています。蘇軾と黄庭堅は、互いの字形を「樹梢掛蛇(木の梢に蛇がぶら下がったような字)」「石圧蝦蟆(石が蛙を押しつぶしたような字)」と冗談交じりに評し合う間柄でもありましたが、この一巻の黄庭堅の言葉には、そうした軽口とは違う真摯な評価がにじんでいます。
顔勤礼碑・祭姪文稿で紹介した顔真卿の名が、黄庭堅の跋文の中にも挙げられている点は興味深いところです。蘇軾の書は、顔真卿の重厚な筆法を吸収しながら、そこに自身の心情をのせて独自の境地を切り拓いたと評価されています。
日本を経由した、百年越しの旅
黄州寒食詩巻は、清の時代に円明園(えんめいえん)に収蔵されていましたが、1860年(咸豊10年)、英仏連合軍による円明園焼失の際に流出し、以後は個人収蔵家の手を転々とします。
1922年(大正11年)、当時の所蔵者であった顏世清(がんせいせい)がこの巻物を携えて東京を訪れ、実業家の菊池惺堂(きくちせいどう、1867〜1935年)に買い取られました。この経緯は、黄州寒食詩巻そのものに添えられた、中国学者・内藤湖南(ないとうこなん)による1924年の跋文にも記されています。
その翌年、関東大震災が発生しました。菊池惺堂が自らの危険を顧みず黄州寒食詩巻を持ち出して焼失を免れた、という逸話は複数の文献で語り継がれていますが、震災当夜の経緯の細部については、近年の文図学的な研究(衣若芬「原田悟朗口述蘇軾『寒食帖』東售日本之疑謬」、2019年)において、関係者の証言に食い違いがあることも指摘されています。救出の逸話そのものを否定する研究ではありませんが、来歴の細部にはなお検討の余地があるという点は、正直にお伝えしておきたいところです。
その後、黄州寒食詩巻は実業家・阿部房次郎(あべふさじろう、1868〜1937年)の手に渡りました。阿部房次郎が蒐集した中国書画160点は、のちに大阪市立美術館の中核コレクションとなっています(黄州寒食詩巻そのものは後年手放されたため、現在同館には所蔵されていません)。第二次世界大戦後、政治家の王世杰(おうせいけつ)がこれを買い取り、1950年に台北へ持ち帰りました。王世杰の没後、1987年に台北の国立故宮博物院がこれを買い取り、現在の所蔵先となっています。
黄州寒食詩巻は、円明園の焼失、日本への渡航、関東大震災をくぐり抜け、台湾へと渡りました。蘇軾自身の人生に劣らぬ波乱の旅を経て、今日わたしたちの目に触れる場所にたどり着いたのです。
黄州寒食詩巻を書くときのポイント
臨書の際に意識したいポイントとしては
- 書き出しから終盤にかけての変化:前半の落ち着いた字形から、後半の肥えた力強い点画への移り変わりをたどる
- 字の大小のリズム:一行の中でも字の大きさが一定でなく、感情の起伏に合わせて揺れ動いている
- 肥痩(ひそう)の対比:太く重みのある点画と、細く鋭い点画が同じ行の中に同居している
以上が挙げられます。蘭亭序の流麗さ、祭姪文稿の生々しい塗抹とはまた違う、蘇軾ならではの「意(こころ)」を優先する書きぶりに触れてみると、行書という書体の懐の深さを改めて実感できるはずです。
蘇軾の書に興味を持った方には、黄州寒食詩巻を含む代表作をまとめた一冊をおすすめしたいです。前赤壁賦や尺牘など、蘇軾の書の幅広さを一冊で見比べられます。
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政治的な苦境の中から生まれ、戦火をくぐり抜けて今日まで受け継がれてきた一巻の書だと考えると、書の見え方も少し変わってくるのではないでしょうか。黄州寒食詩巻について感じたことを、ぜひ誰かと語り合ってみてください。蒲田書道教室では、仲間と一緒にさまざまな古典に触れながら学べます。ぜひ一度遊びにいらしてみませんか。
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