集王聖教序とは?集字という手法で甦った王羲之の書
集王聖教序、王羲之の最高の教科書
中国書道史上ただ一人「書聖」と呼ばれる王羲之(おうぎし)。蘭亭序や十七帖でその書を紹介してきましたが、今回取り上げる「集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)」には、少し変わった事情があります。この碑に刻まれた文章は、王羲之自身が書いたものではありません。
碑文の内容は、唐の皇帝が玄奘(げんじょう)三蔵の功績を称えて書いた序文です。王羲之はこの文章が作られた7世紀には、すでに300年以上前に世を去っていました。それにもかかわらず、集王聖教序は長く「王羲之の行書を学ぶ最良の手本」として扱われ、今も多くの書家がこの碑を通して王羲之の書に触れています。
一字も新たに書かれていないのに、なぜ王羲之の書の教科書になり得たのか。その答えが、唐代の僧・懐仁(えにん)が20年以上の歳月をかけて成し遂げた「集字(しゅうじ)」という、前例のない手法にあります。
集王聖教序とはどのような碑なのか
集王聖教序は、唐の咸亨(かんこう)3年(672年)12月8日に建てられた石碑です。正式な名称を「懐仁集晋右軍将軍王羲之書聖教序(附心経)」といい、碑額(碑の上部)に7体の仏像が刻まれていることから「七仏聖教序」とも呼ばれます。
碑文は、玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を漢訳した功績を称えて唐の太宗(李世民)が書いた「大唐三蔵聖教序」、当時まだ皇太子だった李治(のちの高宗)が書いた「述聖記」、そして玄奘自身が漢訳した「般若波羅蜜多心経」の3つを中心に構成され、これに太宗・皇太子それぞれの返答の辞なども添えられています。唐の皇帝・皇太子の権威が加わったことで、王羲之の書を後世に伝える企画として、国家的な後ろ盾を得ることになりました。
碑は現在、中国・陝西省西安市の西安碑林博物館に所蔵されています。
懐仁という僧侶と「集字」という方法

集王聖教序の成立において中心的な役割を果たしたのが、長安・弘福寺(こうふくじ)の僧・懐仁です。懐仁は、宮中(内府)に所蔵されていた王羲之の書跡から、必要な文字を一字ずつ探し出し、碑文の文章に合わせて配置するという、気の遠くなるような作業に取り組みました。貞観(じょうがん)年間の末から咸亨3年(672年)の完成まで、20年以上の歳月をかけての作業だったと伝えられています。
この碑には、合計で1903字(異なる字形は750種類あまり)が使われています。王羲之研究者の集計によれば、王羲之自身が書いたと信頼されている摹本(もほん、なぞり書きによる複製)は、現存するものを全て合わせても12幅・734字にとどまるといいます。つまり集王聖教序は、現存する王羲之の文字資料の中でも、群を抜いて文字数の多い「文字の宝庫」なのです。これこそが、後世の書家たちがこの碑を王羲之研究の最重要資料として扱ってきた理由です。
単なる「切り貼り」ではなかった集字の技術
複数の異なる作品から一字ずつ文字を抜き出して組み合わせる集字という方法には、本来、大きな弱点があります。文字と文字のつながりが不自然になり、一つの作品としての流れが失われやすいのです。
しかし、ある研究者は、懐仁の仕事についてこう評価しています。懐仁は機械的に文字を貼り合わせたのではなく、字形を注意深く選び、細部を微調整することで、王羲之本来の自然な書きぶりをできる限り再現しようとした、というのです。同じ文字や偏旁(へんぼう、漢字の構成部分)であっても筆の勢いを変え、形に変化を持たせることで、集字作品にありがちな「寄せ集めの硬さ」を免れ、一つのまとまった作品としての流れを獲得した、と評価されています。
集王聖教序、最後の将軍の旧蔵品
集王聖教序の拓本は、日本にも複数伝わっています。中でも興味深いのが、東京大学総合図書館が所蔵する一本です。この拓本は、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)がかつて所有していたもので、紀州徳川家の当主・徳川頼倫(とくがわよりみち)が明治35年(1902年)に設立した私設図書館「南葵文庫(なんきぶんこ)」の収蔵品の一部となりました。その南葵文庫の蔵書、約9万6千点が東京大学へ渡ったきっかけは、大正12年(1923年)の関東大震災です。震災でほとんどの蔵書を失った東京帝国大学附属図書館の復興を支援するため、頼倫は震災のわずか1か月後に南葵文庫の寄贈を決意したと伝えられています。将軍家に伝わった中国古代の拓本が、私設図書館を経て、大学図書館の復興支援という形で受け継がれてきた来歴は、読み解くだけでも興味深いものがあります。
このほか、東京国立博物館にも集王聖教序の拓本が所蔵されており、中国の碑が時代と国境を越えて大切に受け継がれてきたことがうかがえます。
集王聖教序を書くときのポイント
集王聖教序の書風は、運筆が流麗で変化に富み、点画の配置に疎密のリズムがあるという、王羲之本来の行書の特徴をよく伝えています。一方で集字作品ならではの特徴として、一つ一つの文字の内部における空間の作り方・字形の完成度が重視される一方、蘭亭序のような肉筆の作品に比べると、字と字の間のつながり・呼応は控えめです。
臨書の際に意識したいポイントとしては
- 単字としての完成度:一字一字が独立して美しく成立するように作られているため、まず一字ごとの空間構成・バランスをじっくり観察する
- 筆勢の変化:同じ文字が碑文中に複数回登場する箇所では、形の違いを見比べ、王羲之が同じ文字をどう書き分けていたかを学ぶ
- 行書の基本点画:起筆・送筆・収筆のリズムと、点画同士のつながりを意識する
- 蘭亭序・十七帖との比較:肉筆に近い蘭亭序、草書の十七帖と読み比べることで、王羲之の書の幅広さがより立体的に見えてくる
以上が挙げられます。文字数が多く、字形のバリエーションも豊富なため、行書の基本を一通り学んだ後、さらに王羲之の書の奥深さに触れたい方にとって、格好の教材といえるでしょう。
集王聖教序に興味を持った方には、中国法書選の一冊をおすすめしたいです。三井家(聴冰閣)旧蔵の北宋拓を初めて影印したもので、文字の細部までじっくり観察できます。
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王羲之
集字聖教序[東晋・王羲之/行書] (中国法書選 16)
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集字聖教序[東晋・王羲之/行書] (中国法書選 16)
一字も自分では書いていないのに、これほどまでに「王羲之らしさ」を伝える碑があるというのは、考えてみると不思議なことです。集王聖教序について、どんなところに面白さを感じたか、ぜひ教えてください。蒲田書道教室では、こうした古典の奥深さを仲間と一緒に味わいながら学んでいます。ぜひ一度遊びにいらしてみませんか。
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