乙瑛碑とは?方整な書風が際立つ漢碑の典型
乙瑛碑、署名の主は赤子だった
石碑に刻まれた文字を見れば、誰が書いたのかが分かる。そう思われる方もいるのではないでしょうか。ところが「乙瑛碑(いつえいひ)」の場合、碑の末尾に残された署名そのものが、千年近くのちに付け加えられた誤りだったことが分かっています。
碑末には「後漢鍾太尉書(後漢の鍾太尉が書いた)」という一行があります。鍾太尉とは、のちに楷書の基礎を築いた書家・鍾繇(しょうよう、151〜230年)のことです。ところが乙瑛碑が建てられたのは153年。鍾繇はこのとき、生まれてまだ間もない赤子でした。赤子が碑文を書けるはずはありません。
この記事では、乙瑛碑の成立背景、碑に残る誤った署名とそれが見抜かれた経緯、書の特徴、臨書のポイントを解説します。
乙瑛碑とはどのような石碑なのか
乙瑛碑は、後漢の永興元年(えいこう、153年)に建てられた石碑です。正式名称を「魯相乙瑛請置孔廟百石卒史碑(いつえい、こうびょうに百石卒史〈そつし〉を置かんことを請うの碑)」といいます。
碑文は、魯国(現在の中国・山東省曲阜〈きょくふ〉周辺)の相(しょう、地方長官にあたる官職)であった乙瑛が、孔子を祀る孔廟(こうびょう)の祭祀用具・廟の管理を専門に行う役人「百石卒史」を新たに置くことを朝廷に願い出て、許可された経緯を記録した行政文書です。碑文には、乙瑛による上奏文、朝廷からの許可を伝える文書、そして後任の魯相が実際に選ばれた人物を報告する文書までが、一続きの記録としてまとめられています。石碑が建てられた目的そのものが、芸術作品としてではなく、行政上の記録を後世に残すことにあったことがうかがえます。
碑は現在、山東省曲阜市にある曲阜漢魏碑刻陳列館(かつては孔廟の敷地内に置かれていました)に所蔵されています。
碑に残る「鍾太尉書」という誤った署名

乙瑛碑の碑文末尾には、本来の碑文とは別に、後の時代に付け加えられた短い題記(だいき、碑に添える覚え書き)が刻まれています。そこには「後漢鍾太尉書。嘉祐七年(かゆう、1062年)張稚圭、図に按じて題記す」とあります。北宋の嘉祐7年、張稚圭という人物が、何らかの絵図を参考にして「この碑の文字は後漢の鍾太尉、すなわち鍾繇が書いたものである」という覚え書きを書き加えた、という意味です。
鍾繇は、後漢末から三国時代・魏にかけて活躍した政治家・書家で、のちの楷書の基礎を築いた人物として高く評価されています。碑に「鍾繇の筆跡」という権威づけがなされたのも、彼の名声の高さゆえでしょう。
ところが、この署名には年代的に大きな無理がありました。鍾繇の生年は151年です。乙瑛碑が建てられた永興元年は153年ですから、鍾繇はこのときわずか生まれて間もない幼児にすぎず、碑文を書けたはずがありません。
この矛盾は、すでに後世の学者たちによって指摘されています。北宋の文人・洪适は、自身の著作の中で「鍾繇は魏の太和4年(230年)に没しており、永興からは78年も隔たっている。図経(張稚圭が参考にしたとされる絵図の記録)の言うところは誤りである」という趣旨を記しました。明代の文人・趙崡も同様に「鍾繇が後漢の献帝の初め、黄門侍郎という官職に就いたのは、永興から40年近くも後のことだ。これが鍾繇の書でないことは明らかである」と記し、「無理に鍾繇の名に結びつける必要はない」と結論づけています。
つまり乙瑛碑の「鍾太尉書」という署名は、碑そのものに刻まれた文字でありながら、碑が建てられてから900年ほど後に付け加えられた、根拠のない権威づけだったということです。現在、乙瑛碑に文字を清書した人物の名は伝わっていません。
「孔廟三碑」としての位置づけ
乙瑛碑は、同じ曲阜の孔廟に伝わる礼器碑(156年)・史晨碑(ししんひ、碑の表は169年、裏は168年の記年を持つ)とあわせて「孔廟三碑」と総称されることがあります。3碑とも孔廟の祭祀・管理に関わる行政上の記録という共通点を持ちながら、それぞれ異なる書風を見せており、後漢隷書を学ぶ際にしばしばまとめて取り上げられる碑群です。
乙瑛碑の書の特徴
乙瑛碑の書風について、台北の国立故宮博物院は「碑文は隷書、端正で厳粛、沈着で重厚である」と評し、清代の学者たちは漢隷の典型として高く評価してきたと伝えられています。また、別の機関の解説では「結体は方整、骨格と肉づきの均整が取れ、法度(筆法の規範)が厳格である」とも評されています。波勢(はせい、波打つような線の運び)と波磔(はたく、横画の右端を大きく跳ね上げる装飾的な筆致)を特徴としながらも、曹全碑のような流麗さ・優美さよりも、整然とした規律正しさが際立つ書風だといえます。
日本にも伝わる乙瑛碑の拓本
乙瑛碑の拓本は、日本の美術館・博物館にも所蔵されています。
東京国立博物館には、乙瑛碑の拓本(紙本墨拓、掛軸仕立て、縦195.6センチ×横89.5センチ)が所蔵されています。これは書道収集家・高島菊次郎氏が蒐集した拓本の一つで、同氏が寄贈した拓本は雁塔聖教序や蘭亭序の記事でも紹介した通り、東京国立博物館の中国書道コレクションの中核をなしています。
また、滋賀県東近江市にある観峰館(かんぽうかん)にも、乙瑛碑の拓本(縦196.0センチ×横92.0センチ)が所蔵されています。中国・山東省に残る後漢時代の石碑の拓本が、独立した複数の日本の施設にそれぞれ伝わっているのは、興味深い事実です。
乙瑛碑を書くときのポイント
臨書の際に意識したいポイントとしては
- 蔵鋒(ぞうほう)の起筆:穂先を紙に対して垂直に、上から「トンと」落とすように入れる
- 水平垂直の縦横画:縦画・横画とも、きっちりと水平・垂直を意識して引く
- 扁平な字形:縦長ではなく、横に平たく書くことを基本とする
- 方整な構え:字の輪郭を四角く整然と構え、法度(筆法の規範)を守った規律正しさを意識する
- 墨をたっぷりと含ませ、力を抜いて運筆する:重厚さは力みからではなく、たっぷりとした墨と抜けた力から生まれる
- 脈を切らない:行書を書くときのように、できるだけ筆の穂先が紙から離れないよう意識を続けると、線に生きた表情が出る
以上が挙げられます。曹全碑が優美さ・流麗さで評価される隷書であるのに対し、乙瑛碑は方整で法度の厳格な規律正しさに特徴があります。同じ八分隷の完成期を代表する2つの碑を見比べることで、隷書という書体の幅の広さがより立体的に見えてくるはずです。
乙瑛碑に興味を持った方には、中国法書選の一冊をおすすめしたいです。方整な字形の隅々まで、精細に観察できます。
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乙瑛碑[後漢/隷書] (中国法書選 4)

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千年近くも前に付け加えられた誤った署名が、後世の学者たちによって見抜かれていたと知ると、古典との向き合い方も少し変わってくるのではないでしょうか。乙瑛碑について感じたこと、普段取り組んでいる隷書の古典があれば、ぜひ教えてください。蒲田書道教室では、仲間と一緒にさまざまな古典に触れながら学べます。ぜひ一度遊びにいらしてみませんか。
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